竜頭山関連の歴史資料など

近藤 饒


地図ページにある「竜頭山登山用地図」作成に至った動機と、地図を作製する過程で調べた竜頭山付近の歴史資料をまとめたものです。

登山地図作成の動機

@ 国土地理院二万五千分の一地図(中部、気田)の平和(ひらわ)登山口から竜頭山頂までの点線の登山道と実際の登山コースとの大きすぎるギャップ

《答》 国土地理院地図の点線登山道は、過去に使用された道。今は歩行困難箇所も多いです。


A 平和登山口のベンチの少し上右手の石像道標の文字(右 あきは、左 おくのいん道)の意味。

竜頭山平和登山口を入ってすぐのところに道標があり、次のような文字が彫ってあります。

 「右 あきは  左 おくのゐん(おくのいん)道」
平和登山口の道標
道標(竜頭山平和登山口)

この道標が指している右・左というのは、いったいどの道のことを言っているのでしょうか。竜頭山頂付近にある戒光院跡には、かつて秋葉寺の奥の院がありました。ですから、左に行ったら奥の院というのはわかります。でも「右に行ったら秋葉山」というのは、どの道の事を示しているのでしょう?

《答》
 平和登山口少し上から右手に道をとれば、大井橋上部の芝地蔵―大滝―岩井戸―名古尾―舟代―日入沢―千代―前不動―秋葉山へ至る。左手に道をとれば青薙ぎ、ソマ小屋経由で、竜頭山にある秋葉寺奥の院(戒光院)へ至る。という歴史的根拠を示しているという考えに至りました。



@Aの解説・関連資料等(竜頭山、秋葉山の歴史から)

<ア> 古代 ( 〜1200年)

 718年  行基により大登山霊雲院建立   静岡県 歴史の道 秋葉街道
 810年  大登山秋葉寺(しゅうようじ)と改称  静岡県 歴史の道 秋葉街道
 鎌倉時代  秋葉山中に三尺坊が出現とされる  静岡県歴史の道 秋葉街道
 天竜川流域の暮らしと文化(上)
 磐田市史(上巻)

<イ> 中世(鎌倉〜安土桃山時代 1200〜1602年)

   秋葉、光明、竜頭、常光寺、熊伏山に熊野修験や白山信仰が入り、これらの山は修験回峰の場となる。常光寺山では昭和30年代まで行場巡りが続いた。   静岡県文化財団 山と森のフォークロア
   

◆古代・中世のまとめ   秋葉−竜頭―山住−常光寺山の稜線を修験者が回峰、縦走をした。


<ウ> 近世(江戸時代 1603〜1868年)

 1685年  秋葉祭と称し秋葉山の御幣・神輿等を村送りする行列が上方、藤枝まで拡散。幕府の禁止令で納まったが秋葉信仰を広く普及し参詣の規模を広範囲にした。  静岡県 歴史の道 秋葉街道
 1713年  8,9月には秋葉山参詣者が数千人。    和漢三才図会 
 静岡県 歴史の道 秋葉街道
 1772年  西川(秋葉ダム付近)渡船の年間利用者が2万5千人。   龍山村誌
 静岡県 歴史の道 秋葉街道
 1750〜1860年  この年間に6回 秋葉山の御開帳。嘉永5年の御開帳時は多くの常夜灯が寄進された。  東海道名所図絵 
 山と森のフォークロア
 1785年  竜頭山の奥の院(山頂南分岐(「修験の森」の看板あり)の東下、スーパー林道沿い西側)でも御開帳  静岡県 歴史の道 秋葉街道
 1797年  奥の院 本尊不動明王、竜頭山と号す 本堂(秋葉寺)より北方三里奥にして幽遂閑寂の山峰、女人結界なり  東海道名所図会・巻四
 秋葉信仰の根元 三尺坊
 18世紀後半  竜頭山を勝坂山とも称した。  遠江国風土記伝
 山と森のフォークロア
   このころ頻繁に利用された秋葉街道に出るために、天竜川流域(和泉、福沢、仙戸、平和、大滝、上平山、名古尾、大萩など)の各集落から竜頭山の稜線付近に登る道があった。  山と森のフォークロア
 18〜19世紀  青崩峠ー水窪ー相月ー西渡ー(平和登山口)ー上平山ー下平山ー秋葉山 の道を婚姻や善光寺参詣のために利用。 徳川や武田の軍勢も通る。  静岡県 歴史の道 秋葉街道
 1800年代初頭  不動を勝坂より奥の院へ移設 秋葉奥の院に不動があることより竜頭山を不動山とも称した。  中村育男翻刻 掛川誌稿
 1846年  代表的な道として水窪―山住神社―竜頭山―秋葉山の稜線の道(峰道・秋葉ツルネ・奥の院街道)を参詣者が利用しており、そ れを狙った追剥も出没。      秋葉山道中記
 静岡県 歴史の道 秋葉街道
 江戸時代後期  山住〜奥の院(竜頭山)70丁、奥の院〜秋葉山150丁の距離の記述   秋葉山参詣道法図
 神谷昌志 天竜川と秋葉街道

◆近世のまとめ  多くの一般庶民が稜線の縦走(参詣)をし、各集落から稜線に至る道が整備された。

竜頭山では、平和(ひらわ)〜青薙ぎを経由し、二万五千図の黒点線と半血沢左俣の間の尾根(石像の台座2基確認)を登り 1045m水準点を経て、奥の院(戒光院)への登山(参詣)道ができた。また各集落からも稜線へ出て、 そこから奥の院(戒光院)に至る参詣)道もできた。さらに西渡や平和登山口―芝地蔵(大井トンネル上部)を経て、 山の中腹に位置する大滝―岩井戸―名古尾―大萩―船代―日入沢―千代から前不動―秋葉山への秋葉街道(参詣道、塩の道)も整備された。


<エ> 近代 ・現代 (明治時代以降 1868年〜)

 1868年  明治政府の廃仏棄釈・神仏分離令で秋葉寺(しゅうようじ)は廃寺となり、山頂に秋葉神社が新設される。秋葉寺廃寺に伴い、竜頭山の奥の院は、可睡斎に移築。(2006年12月、放火により焼失、のち再建)  
 1880年(明治13年)  秋葉寺再興の動きによりに現在地の杉の平に秋葉寺の堂宇が建立される。  
 1885年(明治18年)  奥田儀光が竜頭山奥の院跡に入山修行。  
 1889年(明治22年)  栗田輝永、気田へ王子製紙を誘致。私財を投じて犬井〜二俣・三倉間に道路開設  春野町史
 1895年(明治28年)  竜頭山にある秋葉寺奥の院は秋葉寺と分離し、真言宗醍醐派の戒光院となる。  勝坂不動龍頭山戒光院 略縁起
 1900年(明治33年)  大萩の奥(名古尾沢沿い)の天神山麓に秋葉寺奥の院が復興建立される。  
 1900年(明治33年)  古河鉱業が久根鉱山の本格的採掘に乗り出す。  
 1923年(大正12年)  王子製紙撤退。村の人口減対策で戒光院が気田へ下ろされる。  勝坂不動龍頭山戒光院 略縁起
 1969,70年
(昭和44,45年)
 峰之沢鉱山、久根鉱山が閉山。  
 1984年(昭和59年)  稜線にスーパー林道開設。  
       

◆近代・現代のまとめ  道路、交通手段の発達、山村集落の過疎化に伴い山道が荒廃し始めた。

青薙ぎからソマ小屋跡経由の現在の一般登山道もできたが、その前には二万五千図の黒色点線の道 (半血沢左俣を渡り南南東へトラバースし、尾根1045mを経由して稜線分岐までの道)(注意;この黒色点線の道は現在歩行困難)もあった。 目的はやはり奥の院(戒光院)や秋葉山参詣だった。

秋葉寺奥の院(可睡斎に移築後、火災で焼失)

竜頭山では山からの木材搬出に木馬(きんま)を使用。役目を終えた木馬道が登山道になった。 半血沢右岸の道(大輪から青薙ぎに至る;現在は崩落により通行禁止)および、青薙ぎからホーズキ平(避難小屋)までの 現在の一般登山道の途中までは、元々は木馬道だった。

平和登山口から南側には久根鉱山従事者の住宅跡や火薬庫跡も残っている。
作成地図の赤色太い実線の道は昔の秋葉街道である。 平和登山口から青薙ぎへの現在の登山道や平和集落跡周辺、芝地蔵(大井橋上部)付近にも秋葉街道が通っていた。





遠州地方の岳人、ハイカー、ビギナーへ

作成したハイキングマップが北遠の名山竜頭山への安全登山に役立ってくれればと願っています。

さらにできれば、浜松市の田町にある一の鳥居跡から小松二の鳥居〜光明山〜秋葉山〜竜頭山〜青崩れ峠を通る塩の道・秋葉街道を、少しずつでも歩いてみてください。その道々に並ぶ常夜灯・丁目石、石仏・道標等も含めて歴史文化への興味の入り口として、心豊かな登山・ウォーキングの一助になればと思います。


近藤 饒(よみがえれ秋葉古道の会・浜北勤労者山岳会)

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